巨樹と清流のまち奥多摩
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町の概要
■町の位置■町章■町民憲章■町の花・木・鳥■町の歴史
 
町の位置
■位置
東経 139度06分
北緯 35度48分
海抜 339メートル
(氷川215-6役場庁舎)
■面積
東西 19.5キロメートル
南北 17.5キロメートル
面積 225.63平方キロメートル
■アクセス
中央自動車道八王子ICから国道411号線
圏央道青梅ICから青梅街道
JR中央線立川駅からJR青梅線
奥多摩町の位置図(東京都の最北西端に位置する奥多摩町)
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町章
町章 「奥」の字を図案化したもので、上部の三角は山を示します。また、中心の円は奥多摩湖をつつみ町民の一円融和を、下部は町民すべてが協力して町を築きあげる意をあらわします。
(昭和35年4月1日制定)
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町民憲章
一、私たちは、水と緑を大切にし 人と自然の調和した、潤いのあるまちをつくります。
一、私たちは、歴史や伝統をだいじにし 教養をつちかい、情操あふれる、文化の薫り高いまちをつくります。
一、私たちは、お互いに敬愛し、学びあい 温かい心のふれあう、生きがいのあるまちをつくります。
一、私たちは、心と体をきたえ 充実した毎日をおくれる、希望にみちたまちをつくります。
一、私たちは、創意とくふうをこらし 働くことに誇りのもてる、活力のあるまちをつくります。
(昭和60年11月3日制定)
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町の花・木・鳥
 町の花・木・鳥は、昭和50年4月1日に奥多摩町発足20周年を記念して、町民みなさんから応募していただいたものを、選定委員会で選定し、制定されました。
町の花(ミツバツツジ)
▲町の花(ミツバツツジ)
 当町は、古くから都民の憩いの場として親しまれ、昭和25年に秩父多摩国立公園(現在は秩父多摩甲斐国立公園)に指定されています。
 その特色は、山ろくから頂に連なる急峻なV字形の渓谷にあり、その渓谷に春早くから紫紅色の花を開き、また秋には、葉が紅葉して美しさをそなえているのがミツバツツジ(紫ツツジ、一番ツツジ)です。ツツジ科に属し、古くから自生し、葉が伸びる前に花が咲き、落葉低木で、その葉が三片ずつ枝葉に出るので、三葉つつじといいます。
 高く大きくなる種類の常緑樹で、幹が直立し、枝葉が密に繁っています。幹が直(まっすぐ)なので、す(直)き(木)となり、スギとなったと言われています。(諸説あり)
 四方を山に囲まれた奥多摩町は、森林の大半を占めるスギに囲まれた町です。特に気候、風土に恵まれ、材質は強じんで建築材として用途は広く、徳川家康の江戸入府による町づくり、再三の江戸大火の建築資材として、多摩川をいかだで供給したのは昔から有名であります。
町の木(スギ)
▲町の木(スギ)
町の鳥(ヤマドリ)
▲町の鳥(ヤマドリ)
 日本特産のキジ科の鳥で、体長はおよそ50センチメートル(雌)から125センチメートル(雄)で低山から山地のよく茂った林に生息しています。町の地勢は絶好の条件になっていて、古くから町民に親しまれています。
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町の歴史
原始・古代
 この時代奥多摩の地に人が住んだのは、今からおよそ1万2千年前から1万年間続く縄文時代の頃です。縄文期の遺跡は数多くあり、時期不明瞭なものもありますが、早期(約7千から1万年前)後半の茅山式にはじまり、晩期(約3千から2千4百年前)はじめの安行式に終わります。晩期安行式は町内では一遺跡のみであり、中期に最も内陸地方で栄えた縄文式文化が、時期が下るにしたがって、内陸地方から海岸に近い地方に移動していったという学説のとおりになっています。従来、縄文式文化人と弥生式文化人とは、居住地に著しい地形上の差異があると説かれていますが、狩猟・魚撈(ぎょろう)を主とする食物採集経済に生きる縄文式文化人と、米づくりの技術を持ち、、農耕による食物の生産と富の蓄積をはかった弥生式文化人とのちがいであります。町内での遺跡は晩期後半の安行式に終わっていることからも、この期以降の縄文式文化人は、奥多摩での狩猟・採集の生活から次第に平野部に移動して、今からおよそ2千3百年前頃に伝播してきた弥生式文化に、吸収同化されたものではないかと考えられます。
 また、弥生式文化時代の人々の生活のあとは現在のところ確認されていません。この時代の人々は、その生活を稲作によって支えていたため、水田耕作の可能な地域で遺跡が分布していますが、奥多摩町は面積の94パーセントが山地(山林)であり、平地といえば多摩川の段丘上に削剥(さくはく)による小平地がわずかに形成されている地形であり、弥生式文化をもつ人々の生活は成立しなかったと思われます。また出土遺物から追っていっても、縄文晩期安行式土器片のわずかな採集があるのみで、それ以降は確認できず、この時代においては人煙のたちのぼることのない山あいの土地であったと考察されます。本格的に人々が奥多摩の地に住むようになったのは、古代末の奈良時代中期と言われています。
中世
 時がたち中世に入ると、国司下向にともなうもの・荘園(しょうえん)の管理経営に関したもの・民族の勢力争いによるものなどの関連で、氏族の移動がぼつぼつと行われるようになって、奥多摩の小平地にも、あちらこちらから山を越え、谷をわたって小豪族が一族一党をひきいて来住することもあったようであります。そして、平和な山ふところに以前から住んでいた人々と融和し、血縁・地縁の関係で次第にムラを形成していきました。
近世
 近世の奥多摩町(江戸時代の奥多摩町)は、16か村に分かれていました。全域が幕府の直轄領(天領)として山の根2万5千石(青梅以西の通称)の中に含まれ、幕府代官の支配が行われていました(当町の一部である大丹波村、小丹波村が一時、田安家領・川越藩領となった)。村支配の仕組みは、代官役所を八王子に置き、出張所の陣屋を青梅森下に設けて代官の手付・手代が直接支配するところとなりました。各村には、名主、組頭、百姓代の村方三役が置かれ、村によっては名主の相談役として年寄役がおかれていました。江戸時代、奥多摩町地域には、34か所2千余町歩(1町歩は約1ヘクタール)の御巣鷹山と称する幕府の直轄林(明治に入って官林といった)がありました。この御巣鷹山は将軍や諸大名が行った鷹狩に使う鷹の巣子を保護するためとして一般民の立ち入りを禁止した山でありました。
近代
 当町は小丹波村のみが川越藩領、他は全て天領として幕末を迎えました。明治新政府が発足し新政府の施策綱領によって地方については府・藩・県の「府藩県三治制」の体制がとられ、奥多摩地域は代官支配地であったので、韮山県に属し、小丹波村のみは、前橋藩に属しました。小丹波村を除く奥多摩地域は韮山県に属することとなりましたが、明治5年(1872)には、神奈川県へ編入されました。小丹波村だけは藩領であったため、「前橋藩」から、「前橋県」に編入され、明治5年に「神奈川県」編入になったのではないかと考えられます。そして、明治22年「市制町村制」の施行によって、現在の奥多摩町地域にも、古里村、氷川村、小河内村の三か村が発足、従来の村はそれぞれ大字となりました。氷川村は昭和15年に町制施行し、氷川町となりました。
現代
(奥多摩町の誕生)
 昭和28年に制定された町村合併推進法に基づき、古里村、氷川町、小河内村の三町村が合併して「奥多摩町」が誕生しました。
 古里村においては、村の東の地区住民の一部に、三田村・吉野村(現在の青梅市の西側一部)と合併して観光の町を実現しようとする意見もありましたが、地域座談会等を経るなかで一本にまとまり、全村民一致して氷川町と合併しようということになり、古里村、氷川町による町村合併促進協議会が、昭和29年11月8日設立されました。
 小河内村においては、山梨県北都留郡小菅村、丹波山村を東京都へ編入し、三か町村で合併する案を、東京都知事に送付し編入についての措置を求めましたが、「県境を越えた合併は全国にその例をみない程難関がある」旨の回答により、結局「大勢のおもむくところ」となり、昭和29年12月27日、小河内村を加えた三か町村合併促進協議会を発足させ協議を重ねました。そして三町村は、産業、経済、文化、交通に一体性があり、あらゆる施策に共通するものがあり、小河内ダム、日原、鳩ノ巣等秩父多摩国立公園(現在の秩父多摩甲斐国立公園)を総合的に開発して、一大観光の町として発展することが望ましいとの意見が固まり、「三町村はいずれも議会において一人の反対者もなく合併を決議」しました。そして昭和30年4月1日、町立氷川小学校講堂において、奥多摩町開庁式典が開催され、輝かしいその第一歩を踏み出したのでありました。    
遺跡から出土した土器
▲遺跡から出土した土器
江戸時代の村々
▲江戸時代の村々
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歴史の一部は、奥多摩水と緑のふれあい館の資料館で見ることができます。
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奥多摩町役場/ 〒198-0212東京都西多摩郡奥多摩町氷川215-6
電話0428-83-2111(代)